"話が合う"のは大事なこと?
友人としてであれパートナーとしてであれ、長く付き合っていく上で大切なこととして「話が合う」というのがよく挙げられるように思います。
お互いに関心のある話題や事柄がないと、関係性は長くは続いていかないのでは?ということです。
たしかにそういう側面はあるかもしれません。そもそも共通点がなければ、お互いに知り合うこともなかったかもしれません。
しかし互いに関係を維持していこうとする時、興味・関心が近いことはそこまで大事なことか?というと、案外そうでもないような気もします。
これまでの人生の中で、各々の興味・関心は違えど、この人のことが何か気になる。そんな人はいなかったでしょうか。そしてそれはなぜなのでしょうか。
私が思うに、それはもっと深い部分、"信頼"というところに理由があるように思います。
サイコパスと仲を深めたいか
人類の中にはサイコパスといわれる気質を持つ人たちが一定の数いると言われています。
その特徴として、自己中心的、冷淡、良心や共感力の欠如などが指摘されています。仮にこうした人物と偶然意気投合したとして、今後も関係性を維持していきたいと思うでしょうか。
サイコパスは社会的に強い立場にいることも多く、面識があれば確かに今後何かしら有利に働くことがあるかもしれません。
しかしそうした打算的な考えを持っている場合を除くと、利害に関係なく長く付き合っていきたいと思う人は少ないのではないでしょうか。
サイコパスとはいわば信頼とは対極にある人物像であり、いざという時に手を貸してくれないばかりか、自分にも火の粉が降りかかりそうな時には容赦なく崖から突き落とそうとしてくる、そんな人物像にも映ります。
もっとも、サイコパスはそうした性質を巧妙に隠し、表向きは良い人を繕っていることが多いとされます。それと見抜くのはそう簡単なことではないかもしれません。
助け合える仲間=信頼できる仲間
先の記事で、孤独はストレスを生みやすいということを書きました。
そしてそれは助け合える他者がいないということが、自身の生存を脅かすことを意味してきたからだということを。
このことを逆から見ると、いざという時に助け合える仲間の存在は、大いなる安心感、充足感をもたらしてくれるということを意味していると言えるかもしれません。
あらゆるモノやサービスが溢れ、より便利に快適に暮らせるようになった現代。他人と一切関わることなく暮らしていくこともできるようになりました。
しかし人間は長い歴史の中で、お互いに助け合って生きてきました。いくら時代や環境が変わろうと、人間の性質というものはそうそう変わることはありません。
いざという時、窮地に立たされた時に頼りになる、助けてくれる仲間。人間は本能的にそういう仲間を求めていると言えます。
そしてそのような人物像を一言で言い表すと、いわゆる「信頼できる人」ということになるのではないかと思います。
「話が合う」というのは知り合うきっかけとしては必要なことかもしれません。
しかし関係性を維持していく上ではそれほど重要ではなく、それよりも信頼に足る人物かどうかということが大事になってくるのではないかと思います。
いくら興味・関心が近くとも、全く信用のおけない人物と積極的に関係性を維持していこうと思う人は少ないでしょう。
共通点がそれほどないのに、なぜか気になる。
それは私たちの直感が、「この人は信頼に値する人物かもしれないよ」と教えてくれているサインかもしれません。