パンとサーカス
紀元前の古代ローマ帝国。
民主的な政治体制と重装歩兵による軍事力に支えられた強国は、隣国を次々に滅ぼし、自国の領土を拡大していきました。
広大な領土を手にした貴族や政治家など時の権力者たちは、その土地を利用して奴隷制の大規模農場を経営し、より効率的に食糧を生産するようになりました。
一方、もともと食糧生産の担い手であった中小の自作農民達は、貴族たちの営む大規模農場に対抗できず職を失い、土地を売って首都ローマへとなだれ込んでいきました。
大規模農場の経営で莫大な富を築いた権力者たちは、仕事を失ってローマに流れ着いた市民たちに無償で食糧と娯楽をあてがうことで絶大な支持を得ることに成功し、さらに権力を増していきました。
そうした中で、ローマ市民たちは自分達で考えることを放棄し、自らの権利を権力者たちへ譲り渡し、ただひたすらに食料と娯楽を要求し貪り続ける盲目的な大衆へと成り下がっていったのです。
こうした流れでローマはより一層帝政としての色を強め、かつての民主政治による強みを失っていきました。
そんな当時の社会情勢を同時代を生きたローマの詩人ユウェナリスはこう綴っています。
…我々民衆は、投票権を失って票の売買ができなくなって以来、国政に対する関心を失って久しい。かつては政治と軍事の全てにおいて権威の源泉だった民衆は、今では一心不乱に、専ら二つのものだけを熱心に求めるようになっているーすなわちパンと見世物を…ユウェナリス『風刺詩集』第10篇77-81行※wikipediaより引用
歴史は繰り返すのか
戦後、1950年代から始まった日本の高度経済成長。
その過程で急速にモノ不足が解消され、三種の神器の一つと言われたテレビは瞬く間に庶民のお茶の間に広まっていきました。
1990年代に入ってインターネットが普及すると、若年層を中心にネットユーザーが増え、テレビの視聴率はゆるやかに下落していきました。
しかしまだまだテレビは特に高齢者世帯を中心に、私達の日常生活に欠かせないものになっています。
私は普段あまり見る機会がないのですが、たまに外出先などでテレビに目をやると、バラエティ番組やワイドショーで、芸能人やお笑い芸人が面白おかしく騒いでいるようなチャンネルが多いことに気付きます。
地上波の民間放送のビジネスモデルは主にはCMによる広告収入です。広告主はより多くの人に広告を見てもらうため、番組の視聴率を意識します。そのため制作会社である民放も、基本的には視聴率をとれるような番組作りをすることになります。
つまり視聴率の低い番組は淘汰される構造にあり、視聴者からのそれなりの支持があるからこそ、今のような番組構成になっている側面が大きいと言えます。
さて一方で、インターネットに移行したユーザー層の興味・関心はというと、テレビの視聴者層とそう変わらないのではないかと思います。
以下の記事ではYahoo!のトップニュースのカテゴリーの割合について世界と比較されていますが、日本は外国に比べて圧倒的に芸能ニュースが多いようです。
アメリカでは芸能ニュースが『Yahoo!』のトップで報道されていた割合は、わずか3%、イギリスは12%。
それに対し、なんと日本では35%もの割合で芸能ニュースが取り上げられていたのだ。芸能人の熱愛や暴露話…。そんなニュースが日本では世界のニュースの倍、自国のニュースとほぼ同じ回数で、トップページに登場していた。
「世界の問題」と「芸能人の熱愛」が同じランクの日本
この状況は、海外の人からみると、違和感を通り越してただただ驚きの状態だという。世界で、そして自国でさまざまな社会問題が起こっているのに、日本ではそのニュースは芸能人のゴシップニュースと同じ位置づけ。それどころか、数日後には世界が注目しているニュースは忘れ去られたかのように、後ろのほうにきてしまうのだ。
確かに、このように数字にすると、自分たちでもその異様さは理解できるかもしれない。しかし、よく考えてみて欲しい。実際に『Yahoo!』を開いたとき、世界で起こったニュースより、芸能人のスキャンダルのページを真っ先に開いてはいないだろうか。そんな「期待」と「要望」に『Yahoo!』は答えているだけなのだ。
私は別にエンタメが悪いものだとは思いません。
面白いものは面白いですし、一緒にテレビを見て笑ったりして、それが会話のきっかけになったりもします。
ただ、日常がそればかりで埋め尽くされていることには何となく違和感を覚えていました。
そして最近になって気がついたことがあります。
ああ、これはパンとサーカスではないかと。
考えてみれば、テレビのワイドショーや芸能人のゴシップなんかは庶民の生活とは直接関係のない、非日常的なエンターテイメントに過ぎません。
一方で、世間一般でお堅い話題とされ敬遠されがちな政治や経済の話などは、本来私達の実生活に根差したごく身近なテーマであるはずなのです。
そういったことに興味を持つ人が少なく、ほとんど日常で語られていない、目を逸らされ続けていることに違和感を感じていたのだということに気が付いたのです。
なぜ違和感を覚えるのか。
自分たちの生活の基盤を成す事柄に無関心であること。
それは帝政ローマで支配者達に家畜のように飼われていた大衆のごとく、自分達の生活、ひいては人生を赤の他人に託すことであり、そこに弱さのようなものを感じてしまうからかもしれません。
当面の生活には困らないかもしれません。
しかし国民の監視のない政治は徐々に腐敗し、次第に私達の日常を蝕んでいきます。
長く続いてきた政治への圧倒的無関心が、今この国の窮状を招いているような気がしてなりません。
ローマで一度飼い慣らされた大衆が主権を取り戻すことが二度となかったように、おそらくこの流れは止まらないでしょうし、ポイントオブノーリターンはとっくに過ぎ去っているのだと思います。
既に我々は一億総自己防衛時代に突入して久しいのかもしれません。
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今回はいつにも増してくだらないことを思うままに書きなぐってしまいました。
…でも雑記ブログだからいいよね('ω')?