情報メタボで思考停止する脳
とある週末、なんとなくYouTubeを眺めていたら、時計の針が午前3時を回っていました。
こんなに時間が経っていたとは……
Youtubeは一つ動画を見終わっても、リコメンド機能で次々とおすすめ動画が表示されるので、次の動画、次の動画…とついつい時間を忘れて見入ってしまいます。
今日ではYoutubeのような動画に限らず、ネット上にはSNS、ブログ、オンラインゲームなど、多種多様なコンテンツが日々無限に生み出され続けています。
退屈で死にそうになるという表現はもはや過去のものとなり、ネットの世界だけでも死ぬまで楽しく暇を潰せるようになったのかもしれません。
一方で、そんなネット全盛の時代を生きる私達には、それなりのリテラシーが必要ではないかと感じることがあります。
以前その辺りのことについてブログに書いてみたことがあります。
集中力や情報処理能力はMPのように消費されるため、取り込む情報はなるべく厳選した方が良いのではないか。
そんなようなことを書きました。
さてそのことと関連してですが、先日面白い記事を見つけました。
生活に欠かせないスマホが脳科学の世界で物議を醸している。スマホに依存すると30~50代の働き盛りでも、もの忘れが激しくなり判断力や意欲も低下するというのだ。患者の脳では前頭葉の血流が減少。スマホから文字や映像などの膨大な情報が絶えず流入し続け、情報処理が追いつかなくなると見られている。
スマホによる「認知機能の低下」、「脳過労」とも呼ばれています。スマホが原因で脳過労に陥った人の脳画像です。青くなっているのは、血流が減って機能が鈍っている部分。正常な時と比べると、明らかに機能の低下が広がっています。
近年、現役世代の間で物忘れが目立ったり、認知機能の低下した人が増えてきているということのようです。
この記事に登場する脳神経外科医の奥村医師は書籍も出版されており、そちらの本も読んでみたのですが、とても興味深い内容でした。

10万人の脳を診断した脳神経外科医が教える その「もの忘れ」はスマホ認知症だった (青春新書インテリジェンス)
- 作者:奥村 歩
- 発売日: 2017/07/04
- メディア: 新書
内容を大雑把に言うと、脳には前線でワーキングメモリを使用して取り込んだ情報を浅く処理するモードと、情報を統合して前頭前野で深く思考する機能があるそうですが、四六時中情報を取り込んでいる情報メタボの人の脳は、常に浅い情報処理に追われており、deep thinkingする機能が使われないまま錆び付いてしまっているということのようです。
要するに生活習慣病の前段階であるメタボリックシンドロームで正常な代謝が行われなくなるように、情報メタボ患者の脳では正常な思考機能が失われてしまっているということです。
スマホ脳は、いわばタスクを遂行するためのメモリが不足した状態です。
これがPCならばメモリを増設して処理能力を向上させることができますが、脳というデバイスではそうはいきません。
インターネットが普及し、これほどまでに情報が飛び交うようになったのはここ20年ほどのことですが、人類の何万年という歴史に比べるとあまりにも早く時代が変化し過ぎており、人間の身体というハードウェアの進化が社会の変化に全く追い付いていないのではないでしょうか。
それはさておき、脳のワーキングメモリが限られているならば、そのパフォーマンスを保つためにできることと言えば、情報量やタスクを意識的に絞り込んでメモリを温存する以外に方法はないように思います。
また、脳にはデフォルト・モード・ネットワークというアイドリング状態のようなモードが存在し、このアイドリング中に情報の整理やメンテナンスが行われることで脳のパフォーマンスが保たれ、かつ前頭前野の深い思考のサポート的な役割も担っているとのことで、アイディアのひらめきなどとも関係しているようです。
そしてこのデフォルト・モード・ネットワークが活発になるのはどんな時かというと、何となくぼーっとしている時、つまりタスク処理が行われていないときにアクティブになる機能のようです。

こういったことを踏まえると、現代人に必要なのは、もっと…もっと……と情報収集をすることではなく、意識的に脳を休ませることではないかという気がしてきます。
意志力が試される時代
脳がその機能を保つにはデフォルト・モード・ネットワークというアイドリング状態、余白が必要である一方で、現代の情報メタボ社会では絶えずワーキングメモリを消費してタスク処理が行われており、その本来のパフォーマンスが十分に発揮されにくい環境にあるということを書きました。
さてメモリが限られているという性質上、人間の脳は基本的にマルチタスクにも向いていません。
"二兎を追う者は一兎をも得ず"ということわざがありますが、私たちが何か目標を達成しようとする時、実際二兎程度であれば何とかなるかもしれませんが、それが三兎、四兎となってくると、ワーキングメモリがパンクしてしまいます。
すると前頭前野での深い思考が行われにくくなり、かつメンテナンス(デフォルト・モード・ネットワーク)機能も働かなくなるため、結局アウトプットも浅いものになってしまいやすくなります。
つまり何らかの分野で成果を上げたいという場合、必然的にそのことにある程度(時間や思考力を)集中投資する必要があるということだと思います。
しかし現代のこのコンテンツ天国ともいえる情報化社会は、見方を変えると、何かに打ち込もうとしても誘惑が多く、注意が散漫になりやすい環境だと言えます。
ひと昔前、まだインターネットが普及していなかった時代は、デジタル系の娯楽と言えば据え置き型のゲーム機くらいのものでした。
それが今や、消費しきれないほどのデジタルコンテンツに囲まれています。
このような環境下で何かに集中して打ち込もうとすれば、自分で自分を強く律する必要があります。
誘惑に負けてスマホを見てしまうと、際限なく目に飛び込んで来るコンテンツでワーキングメモリがどんどん消費され、脳は十分なパフォーマンスを発揮できなくなってしまいます。
物語のシナリオをどうデザインするか
現代は動画やSNS、ブログ、まとめサイトとインターネット上にあらゆるコンテンツがあふれ、それらを消費することで手軽な楽しさを得ることができるようになりました。
しかし一方で、何かに打ち込んだり、能動的に物事に取り組むことで得られる充実感のようなものは、昔に比べて得難くなっていると言えるかもしれません。
「お手軽に楽しめるのなら、それでいいじゃないか」という考え方ももちろんあると思いますが、後から振り返った時に思い出すのは、やはり何かをやり遂げた達成感、充実感を感じた時のことのような気がします。
冒頭で、漫然とYoutubeを見ていると延々と時間を費やしてしまいやすいという話をしましたが、ここで動画をアップする側、Youtuber達のことを考えてみると、彼らは自分オリジナルの動画を趣向を凝らして制作する立派なクリエイターです。
どのくらいの長さの動画をとるか、どの程度編集を入れるかなどにもよると思いますが、動画を一本完成させるというのはなかなか骨の折れることであり、Youtuber達は程度の差こそあれ、日々それなりの時間を割いて動画制作を行っているのだと思います。
見方を変えると、彼らはある意味、時間や集中力・意志力という有限なリソースを動画の制作に集中投資しており、一時とは言え「YouTuber〇〇」という生き方を自分自身で選び取っているとも言えます。
生き方が多様化したこのカオスな時代にあって、我々には、自分がどのような物語を紡いでいきたいのか、ある意味自身の人生のシナリオを描くような発想が求められているのかもしれません。
自分だからこそ紡ぐことのできる物語。その中身はどんなストーリーなのでしょうか。