ルールは守るが助け合いが嫌いな日本社会
災害など非常時においても整然とした集団行動をみせることで知られる日本社会。
その理由について、日本人はもともと礼儀正しく和を重んじる、集団主義的な国民性だから。と、よくそう説明されています。
しかしそれは必ずしも正しい解釈ではないのではないかということも言われています。
上のグラフは主要国において、過去1か月以内に"助け合い"行為を行った人の割合について調査されたものです(※1)。
文化的な背景もあるとは思いますが、各国と比較して、日本は知らない人の手助け、寄付、ボランティアのいずれの項目でも5人に1人程度と軒並み低い数字です。
この結果は、日本人は集団主義的というステレオタイプに反するものにも思えます。
これはいったいどういうことなのでしょうか。
ムラ社会に染まるほどよそ者に冷たくなる?
前に書いた記事(※2)で『安心社会から信頼社会へ』という本に登場する「安心社会」、「信頼社会」という概念について触れました。
安心社会とは、一言でいえばヤクザ型コミットメント社会であり、村八分のような「掟をやぶったら、どうなるかわかっているだろうな?」という仕組みにより、裏切られる可能性(社会的不確実性)を限りなくゼロに近づけている社会です。
一方で信頼社会は、個々人が社会的知性(人を見抜く力)を発揮して、信頼できる人を見極めることで不確実性を低減させている社会のことです。
安心社会の住人は、共同体内部の人間関係を検知する能力が高いものの、その代償として、外の世界に対しては強い不信を示すようになります。
また同書では、見知らぬ他者への信頼感(一般的信頼)は共感性の高さと正の相関(相関係数0.44)にあるということも指摘されています。
そして思いやりや寛容性は、この共感性の高さと強く結びついているのです(※3)。
つまり他者を信頼している人ほど共感性が高い傾向にあり、見知らぬ他人に対しても親切な行動を起こしやすいということです。
さらに特筆すべきは、他者への信頼感(一般的信頼)は特定の相手とのコミットメント関係が強くなればなるほど低下するということです。
これらのことが示唆しているのは、共感性の高さや親切さは先天的にある程度決まってはいるものの、濃密なムラ社会に染まれば染まるほど排他的で他人が信じられなくなり、思いやりや寛容さを失うということです。
和を重んじているように見える一方で、見知らぬ人には手を差し伸べたがらないという日本人の特徴は、典型的な安心社会の行動特性とも言えます。
日本人の忠実さは、集団(利他)主義というイメージに反し、「村八分」という鉄の掟によって維持されており、ルールを破ることによる制裁や、罰せられる可能性が存在しない("世間"から後ろ指を指されない)状況では、「旅の恥はかき捨て」とばかりにむしろ自己中心的に振舞いやすいという研究結果も報告されています。
結局、日本の社会はその実、いまだに"村"や"世間"の集合体でしかなく、ムラ社会の原理(おらが村至上主義)で動いているのではないでしょうか。
ともすれば自己責任論が幅を利かせ、政治への関心が薄く、縦割り構造やセクショナリズムが蔓延し、政治家や官僚の汚職(「お主も悪よのう」という部分最適)が絶えないのは、こういった社会的背景と無関係ではないようにも思えます。
国や社会をないがしろに、ひたすらに利権を漁り続けるその姿は、村人が共同体のソトの世界から、村(自分と仲間)に利益をもたらそうと必死になっている姿にも重なります。
村人が市民になる時、本当の社会が誕生する
そもそも安心社会が形成されたのには時代的な背景が関係しています。
社会的不確実性が高く、何を信じればよいか皆目検討がつかなかった時代、相手との関係の確実性を高める、すなわちだまされる可能性を少しでも減らすために、相手と長期にわたる密接な関係を築いていました。
研究でも社会的不確実性がヤクザ型コミットメント関係を促進することが明らかにされており、ムラ社会とは、良い関係性の結果ではなく、社会的不確実性を減らすための手段としての社会だったのです。
しかし近年になって社会全体の透明化・情報化により、社会的不確実性は大きく低下してきています。
また物流システムの整備、コストの低下により、世界中の人との取引が可能になり、共同体内部で取引を完結させることの機会費用が飛躍的に上昇(機会損失が増加)しました。
かつて社会的不確実性が高く、機会損失がそれほど多くなかった時代には、特定の相手とのコミットメント関係を形成することに一定の合理性があったと考えられますが、そのような時代の変化の中で、安心社会の中にとどまるのは著しく非合理的になってきていると言えます。
つまり時代の流れが安心社会から信頼社会への変化を促しているのです。
この安心社会から信頼社会への変化という点において日本が他国に後れを取っている理由としては、民族的に不安を感じやすく、ムラ(群れ)を作りたがること、社会的不確実性を高く見積もりやすいことなどが考えられます。
しかし井の中の蛙が意を決して大海に飛び込むことで、村や世間の外側に広がっている「社会」を意識するようになり、その過程で一般的信頼や社会的な知性が養われます(※4)。
それは"村人"が"市民"になる過程で、個としての自立が促され、他者への共感性や公共心が育まれることをも意味します。
その時に初めて、本当の民主主義社会が芽吹くのかもしれません。
※1:
※2:
※3:
※4:『安心社会から信頼社会へ』では、とりわけ偏差値の高い大学の学生が、在学中(1年次→2年次)に一般的信頼尺度を大きく上昇させることが示されており、その理由として共同体外部と接触する機会が多い点が指摘されています。