ネットがつまらなくなったのはオタクがいなくなったせい?
先日はてなでこんなエントリを見つけました。
■日本人のITブログってつまらないのしかない
ほんとにつまらない
やってみました程度
その程度なら普通にやってるぞくらいのレベル
その点、海外の記事は読むに値する
この違いはなんだろう
これに対する反応に以下のようなものがありました。
この増田かなり核心に迫ってると思う。
遊び心に本気になるというのかねえ?
そういうのが圧倒的に足りてないんだと思う。
今の世代のIT戦士たちは。
日本語のブログ記事は浅く表層的なものにとどまっているという主張に対し、その原因は遊び心の無さ、つまりは探求心や知的好奇心の不足にあるのではないかと言及しています。
これはそこから来るマニアックさ、ある種のオタク的要素が欠けているとも言い換えられるかもしれません。
実を言うとベテランネットサーファーであるこの私も同じように感じることがしばしばあり、それがこのことを覚えていた理由でもあります。
ただこれは以前は必ずしもそうではなかったように思います。
懐古厨と言われるかもしれませんが、スマートフォンが世の中に普及する前、インターネットへのアクセスがPCに限られていた時代には、読み応えのある論考やニッチなジャンルについて掘り下げたオタッキーな記事など、割とディープなコンテンツが存在していたような気がするのです。
世の中にはいろんな方面にすごい人がいるもんだと当時しきりに関心したことを覚えています。
かつてはネット人口も今ほど多くなく、アフィリエイトや広告収入などネットで収益を上げるビジネスモデルも一般的ではなかったこともあり、ネット上のコンテンツはいわばユーザーの自己満足の産物でしかありませんでした。
しかしかえってそのことが、ネットの世界をより味わい深いものにしていたのかもしれません。
翻って近頃のインターネットからはそのようなディープさが失われているように感じますが、その大きな要因の一つはやはりネットが金儲けの舞台と化してしまったことにあるように思います。
ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、優れた文章の条件は何よりもまず書き手に明確な主張や思想があることだと言います。
まず第一に著作家には二つのタイプがある。事柄そのもののために書く者と、書くために書く者である。第一のタイプに入る人々は思想を所有し、経験をつんでいて、それを伝達する価値のあるものと考えている。
第二のタイプに入る人々は金銭を必要とし、要するに金銭のために書く。彼らの特徴は次のとおりである。彼らはできるだけ長く思想の糸をつむぐ。真偽曖昧な思想や歪曲された不自然な思想、動揺常ならぬ思想を次々と丹念にくりひろげて行く。また多くは偽装のために薄明を愛する。したがってその文章には明確さ、非の打ちようのない明瞭さが欠けている。そのため我々はただちに、彼らが原稿用紙をうずめるために書くという事実に気がつく。すぐれた文体たるための第一規則は、主張すべきものを所有することである。
『読書について 他二篇』/ ショウペンハウエル 著 斎藤忍随 訳
コミュニティの一生のコピペ(※1)ではありませんが、アクセス数稼ぎやSEO対策のための記事が粗製乱造された結果、ディープなコンテンツの担い手であったオタク達は次第にその姿を消してしまったのかもしれません。
おもしろさの源泉はオタクの情熱にあった?
ところでここで言うオタクとは、ただ受動的にコンテンツを次々と消費していくのではなく、一つのジャンルや作品についてとことん突き詰めていく能動的なタイプのオタクのことです。
知的好奇心や探求心に富むこのタイプのオタクは、脳科学的には背外側前頭前野の活性が高いタイプと考えられますが、彼らのエネルギーの源泉となっているのはその並々ならぬ情熱ともいうべきものです。
その情熱をエンジンとして、本物のオタクはあるテーマやジャンルに関して細部にいたるまでを事細かく把握し、ほかに並ぶ者のないほどの知識を身に着けていることが多々あります。
そして四六時中そのことについて考えを巡らせているため、結果として彼らの頭の中には鋭い洞察や独自の考察が生まれるというわけです(※2)。
それらが結晶化したコンテンツは、アクセスアップやSEO対策を目的とした通り一遍のコピペサイトにはとても真似できるようなものではないでしょう。
かつてのインターネットとは、何の見返りがなくとも自分の意見を世に問いたい、同好の士と意見交換がしたいという純粋なオタク精神からなる世界だったのだと思います。
ディープなコンテンツの正体、それはオタクの情熱がネットの世界ににじみ出たものだったのではないでしょうか。
オタクが教養を身に着けるとイノベーターになる
オタクの類い稀な情熱が、ある分野についての比類ない知識を呼び、彼らに深い洞察をもたらす。
このことは何も漫画やアニメなどサブカルチャーの領域に限ったことではありません。
あらゆる分野における創造や発明についても同様のことが言え、ある意味で歴代のイノベーター達も例外なく何らかの分野のオタクだったと言えるでしょう。
重要な概念を生み出した人々は、細かいことへのこだわりが非常に強いのが普通だ。『種の起源』を初めて読んだら、期待していた内容とはずいぶんちがうと感じることだろう。そこには知的革命を高らかに宣言するような言葉は見当たらず、何ページにもわたって犬や馬の繁殖に関する記述が続いている。世界を変えるダーウィンの着想は、経験的観測から有機的に成長したものだったのである。同じように、アダム・スミスの『国富論』を読み始めると、市場の見えざる手に話が及ぶ前に、針工場の作業をつぶさに観察したようすが記されている。
忘れてはならないのは素晴らしいアイディアと素晴らしい製品のあいだにはとてつもない職人技が介在しているということだ……一つの製品をデザインするには五〇〇〇のことを頭に留め、望みのものが得られるようにそれを新しい方法で残らず組み合わせなければならない。
『子どもは40000回質問する』/ イアン・レズリー 著
“神は細部に宿る”と言いますが、一つのテーマについて習熟する、誰よりも詳しくなるというのはイノベーションを起こすための必要条件の一つと言えるかもしれません。
武道などの『守・破・離』と言われるプロセスも、「守」、すなわち王道と言われる型を忠実に身に着ける段階を確実にクリアするところから始まるのです。
しかしその次の「破」のステージでは、外部から新しい要素を取り入れることが必要になってきます。
たとえば、チャールズ・ダーウィンはミミズの生態やフィンチのクチバシについては世界中の誰よりも詳しかった。しかし、ほかの博物学者を引き離して決定的な理論を打ち立てることができたのは、経済学者トマス・マルサスを読んでいたからだ。もっとも、ダーウィンが幅広い分野に精通していたからといって、生物学について深い専門知識がなければ、画期的な理論に到達することはなかっただろう(仮に思いついたとしても、誰にも信じてもらえなかったにちがいない)。また、彼がほかの分野から盛んに知識を吸収していなければ、進化の根底にある論理を見抜くきっかけになる洞察を得ることはなかっただろう。
スティーブ・ジョブズは非常に聡明で優秀な技術者ではあったが、誰よりも独創的な思考の持ち主ではなかった。彼を特別な存在にしたのは、成功を求める猛烈な意志と、燃えるような知的好奇心だろう。ジョブズはあらゆることに興味をもった。バウハウス運動[二〇世紀初頭にドイツに創立された総合造形学校の流れをくむ芸術運動]、ビート・ジェネレーション、東洋の哲学、ビジネスの仕組み、ボブ・ディランの歌詞、消化器官の仕組み。ジョブズを知る、ある大学講師はこう振り返る。「彼は探求心がずば抜けて強かった……一般的に受け入れられている常識であっても無批判に受け入れようとはせず、自分で何でも調べたがりました」。ジョブズはただ興味を惹かれたという理由でカリグラフィーの授業も受けていた。
ジョブズは並外れて好奇心が強かったからこそ、独創的な自己とビジネスを生み出し、革新を重ねることができた。テクノロジーの世界で彼ほど幅広い知識をもった人物はほとんどいなかったから、インターネットがさまざまな業界の垣根を打ち壊したとき、彼は誰よりも有利な立場に躍りでた。アップルは少なくとも四つの異質な文化を融合した。どれもかつて彼が深く傾倒したものだ。一九六〇年代の反体制文化、アメリカに受け継がれる起業家の文化、デザインの文化、そしてコンピューターオタクの文化である。
「守」で身に着けた基本の型に「破」で取り入れたアイディアを吹き込むことで「離」、すなわちイノベーションが生まれるのです。
しかし重要なのは、「守」という土台がしっかりしていないことには「破」も「離」もその後に続かないということです。
「守」の土台を築くことだけでもまずもって容易なことではありませんが、その底知れぬ情熱によりある分野を極めたオタクはその土台の上に立つことができた稀有な存在と言えるかもしれません。
「オタクには親切にしよう、いつか彼らの下で働くことになるだろうから」という有名なジョークがありますが、あなたの身近で虐げられているオタクも、ひょっとしたら将来大物になるイノベーターの卵かもしれません。
そっと保護してあげましょう。
※1:
※2:
宮崎駿のジブリ作品をこよなく愛す自称オタキングこと岡田斗司夫氏の考察などはその良い一例だと思います。